「――はあ……」
ここは山梨県のとある地方都市。
秋も深まったある日、一人セーラー服姿の女子中学生が、学校帰りに盛大なため息をつきながら田んぼの畦道をトボトボと歩いていた。
それは決して、テストの成績が悪かったから……ではない。彼女の成績は、学年ではトップクラスでいいのだから。
彼女の悩みはもっと深刻なのだ。進路決定を控えた中学三年生にとって、進学するか就職するかは一大事である。
彼女は県外の高校への進学を望んでいるけれど、それが難しいことも分かっている。
なぜなら、彼女は幼い頃から施設で暮らしているから。
彼女――相川愛美は、物心つく前から児童養護施設・〈わかば園〉で育ってきた。両親の顔は知らないけれど、聡美園長先生からはすでに亡くなっていると聞かされた。
〈わかば園〉は国からの援助や寄付金で運営されているため、経営状態は決していいとはいえない。そのため、この施設には高校卒業までいられるけれど、進学先は県内の公立高校に限定されてしまう。県外の高校や、まして私立高校の進学費用なんて出してもらえるわけがないのだ。
進学するとなると、卒業までに里親を見つけてもらうか、後見人になってくれる人が現れるのを待つしかない。
「進学したいなあ……」
愛美はまた一つため息をつく。希望どおりの高校に進学することが普通じゃないなんて――。
学校の同級生はみんな、当たり前のように「どこの高校に行く?」という話をしているのに。
(どうしてわたしには、お父さんとお母さんがいないんだろう?)
実の両親は亡くなっているので仕方ないとしても、義理の両親とか。誰か引き取ってくれる親戚とかでもいてくれたら……。
「――はあ……。帰ろう」
悩んでいても仕方ない。施設では優しい園長先生や先生たちや、〝弟妹たち〟が待っているのだ。
「ただいまぁ……」
〈わかば園〉の門をくぐると、愛美は庭で遊んでいた弟妹たちに声をかけた。
そこにいるのはほとんどが小学生以下の子供たちだけれど、そこに中学一年生の小谷涼介も交じってサッカーをやっている。
「あ、愛美姉ちゃん! お帰りー」
「……ただいま。ねえリョウちゃん、先生たちは?」
「先生たちは、園長先生の手伝いしてるよ。今日、理事会やってっから」
「そっか。今日、理事会の日だったね。ありがと」
この施設では毎月の第一水曜日、この〈わかば園〉に寄付をしてくれている理事たちの会合があるのだ。
ここで暮らす子供の中では最年長の愛美は、毎月自主的に園長や他の先生たちの手伝いをしている。――〝手伝い〟といっても、お茶を淹れたりするくらいのもので、理事たちの前に出ることはめったにないのだけれど。
「――さて、わたしも着替えて手伝おう」
玄関で靴を脱ぎ、散らかっている子供たちの靴と一緒に自分の靴も整頓してから、愛美は階段を上がって二階の六号室に向かった。
ここは彼女の一人部屋ではなく、他に五人の幼い弟妹たちも一緒に暮らしている部屋。
幸い、この部屋のおチビちゃんたちは食堂でおやつの時間らしく、部屋には誰もいなかった。
(今日は進路のこと話すヒマなさそうだな……。園長先生、忙しそうだし)
そんなことを思いながら制服から、お気に入りのブルーのギンガムチェックのブラウスとデニムスカート・白いニットに着替えた愛美は、一階に下りておチビちゃんたちがおやつ中の食堂を横切り、台所に入る。
「先生たち、ただいま! わたしもお手伝いします!」
「あら、愛美ちゃん。おかえりなさい。いつも悪いわねえ。――じゃあ、理事会の人たちにお出しするお茶、淹れてもらえる?」
「はーい」
施設の麻子先生にお願いされ、愛美はテキパキと動き始めた。
急須にお茶っ葉を量って入れて、その上からお湯を注ぐ。しばらくすると、いい香りのする美味しい緑茶ができ上がった。
「今日は何人の方が来られてるんですか?」
「えーっと……、確か九人だったかな。だから、園長先生の分も合わせて十人分ね」
「分かりました」
ということだったので、上等な湯飲みを十人分食器棚から出してお盆に載せ、急須から出でき立ての緑茶を淹れていく。
「できました! わたし、運んできます!」
「いいから、愛美ちゃん! ありがとう。あとは私たちでやるから、部屋で休んでていいわよ。晩ごはんの時間になったら呼ぶから」
「……はーい」
愛美はしぶしぶ頷いた。本当は「お茶を運ぶ」という口実で、理事たちの顔を確かめたかったのだけれど……。
毎月こうなのだ。愛美が「お茶を運ぶ」と言うたびに、先生たちに止められる。そのため、愛美はこの施設の理事がどんな人たちなのか、全然知らないのである。
――ただ一つ、ハッキリしていることがある。
(……まあ、お金持ちなんだろうな。こういう施設に寄付できるくらいなんだから)
愛美はそういうお金持ちとか、セレブとかいわれている人たちの生活を知らない。学校の友達にもいないし、どれだけ想像力を働かせても思い浮かばない。
彼女は幼い頃から、本を読むのが好きだ。想像力も豊かで、将来は小説家になりたいと思っている。その豊かな想像力をもってしても、具体的なイメージが浮かばないのだ。
――窓際の学習机で学校の宿題を終わらせ、一息ついた愛美は何げなく窓の外に視線を移す。
もう夕方の六時前。外は暗くなり始めている。
理事会は終わったらしく、門の外には黒塗りの高級リムジン車やハイヤーが何台も列を作っている。
「いいなあ……。わたしも乗ってみたいな」
愛美はちょっと憧れを込めた眼差しでその光景を眺め、机に頬杖をつきながら想像してみた。――ピカピカに磨かれた高級リムジンに乗り込む自分の姿を。
高級ブランドスーツに身を包み、後部座席にゆったりもたれてお抱え運転手に「家までお願い」とか言っている――。そう、自分はお金持ちの令嬢だ。
そして高級リムジンは立派なゲートを抜け、大豪邸の敷地内へ入っていく――。
けれど。愛美の空想はそこまでで止まってしまった。
「……あれ? 大豪邸の中ってどんな感じなんだろう?」
一度も入ったことのない、大きなお屋敷の間取りがどんな風になっているのか、インテリアはどんなものなのか? 全くもって想像がつかない。
友達の家に遊びに行ったことはあるけれど、そこだってごく普通の民家。〝豪邸〟と呼べるほど立派な家ではないのだ。
「はあ…………」
なんだか虚しくなった愛美は、空想を打ち切った。ちょうど、おやつタイムが終わったおチビちゃんたちが戻ってきたからでもある。
――これが愛美の現実。高級リムジンで送迎してもらえるようなお嬢様にはなれないし、そんな人たちと自分は住む世界が違うんだ。彼女はそう思っていた。
――この日の夜、聡美園長先生から思いがけない話を聞かされるまでは……。
* * * *
「――ごちそうさまでした」
晩ごはんの時間。愛美は半分も食べないうちに、箸を置いてしまった。今日のメニューは、大好物のハンバーグだったというのに。
「あら、愛美ちゃん。もういいの?」
照美先生が、心配そうに愛美に訊いた。
「うん、なんかあんまり食欲なくて……。先に部屋に行ってます」
「そう? あとでお夜食に、おにぎりが何か持って行ってあげましょうか?」
「ううん、大丈夫です。ありがとう」
ぎこちなく笑いかけて、愛美は食堂を出た。重い足取りで階段を上がっていく。
(……結局、園長先生に進路のこと話せなかったなあ)
理事会はもう終わっているはずなのに、園長先生は晩ごはんの席にも来なかった。その前にでも、話そうと思っていたのに。
部屋に戻ると、愛美はしおりが挟まった一冊の本を手に取った。
『あしながおじさん』――。彼女が幼い頃からずっと愛読している本で、もう何度読み返したか分からない。
この本の主人公・ジュディも愛美と同じように施設で育ち、ある資産家に援助してもらって大学に進学。作家にもなった。
――もし、この本みたいなことが自分にも起こったら? 進学問題だって簡単に解決できちゃうのに……。
「……まさかね。そんなこと、あるワケないか」
愛美は一人呟く。これではあまりにも妄想が過ぎる。
それは、ジュディが物語のヒロインだから起こり得た奇跡だ。現実に起こる確率は限りなくゼロに近いと思う。
「……でも、ゼロだとも言えないよね」
希望は捨てたくない。自分の境遇を憂いて、手を差し伸べてくれる人がきっと現れる――。いつもそう思っているから、愛美はこの本を読むことをやめられないのだ。
――弟妹たちが食堂から戻ってきたことにも気づかず、愛美が読書に夢中になっていると……。
「――愛美姉ちゃーん! 園長先生が呼んでるよー!」
部屋の外から涼介の声がした。愛美はすぐ廊下に出て、彼に訊ねる。
「園長先生が? わたしに何のご用だろう?」
「さあ? オレはそこまで聞いてないけど。ただ『呼んできて』って頼まれただけだよ」
「……そっか、分かった。ちょっと行ってくるね。ありがと、リョウちゃん」
涼介はこの施設の子供の中で、愛美と一番歳が近いので、話も合うし仲がいい。だからこうして、たまに愛美の呼び出し係にされることもある。
でも、彼は「イヤだ」と言わない。彼にとって愛美姉ちゃんは、血は繋がっていなくても実の姉のような存在だから。〝姉ちゃん〟の役に立てることが嬉しくて仕方ないのだ。
――それはさておき。
(園長先生、わたしにどんな御用なんだろ……?)
一階まで階段を下りながら、愛美は首を傾げた。これといって思い当たることがないのだ。
叱られるようなことは何もしていない。……少なくとも愛美自身は。
でも、同じ六号室の幼い弟妹たちの誰かが、理事さんに失礼なことでもしていたら……? それは一番年上の愛美の責任でもある。
(ああ、どうしよう……?)
――でも。もしも、そうじゃなかったとしたら。
(もしかして、わたしの進路の話……とか?)
愛美は今日、学校で担任の先生と面談したのだ。卒業後の進路について、まだ決められないのでどうしたらいいか、と。
その連絡が、園長先生に入っていてもおかしくない。この施設の園長が、愛美の保護者にあたるのだから。
(……いやいや! まさか、そんなこと――)
愛美は首をブンブンと横に振った。
もしそうだとしたら、この展開は愛美の愛読書・『あしながおじさん』のエピソードにそっくりじゃないか!
でも、「ない」と否定しきれない自分がいて、愛美はソワソワしながら暗くなった一階の職員用玄関の前を通りかかった。
――と、そこには一人の人影が見える。
暗いので顔は見えず、見えるのはシルエットだけ。その後ろ姿から分かることは、背の高い男性だということだけだ。
(……わ、すごく背の高い人だなあ。それに……結構若い?)
どうしてそう思ったのかは、愛美にもよく分からない。けれど、何となく「この人、そんなに年齢いってないんじゃないか」と思ったのである。
愛美が彼の後ろ姿にしばらく見入っていると、外が一瞬パッと明るくなり、愛美はまぶしさに目がくらんだ。外に迎えの車が停まり、ヘッドライトで照らされたらしい。
次に彼女が目を開けた時、目にしたのは壁に映ったヒョロ長い影――。
(……えっ!? 待って! これって……同じだ!)
愛美にはピンときた。『あしながおじさん』の本の中に、同じシチュエーションが登場するのだ。
あの時、ジュディはそのコミカルな影を目にして笑い出した。愛美も笑顔になったけれど、理由は違う。
(もしかして、奇跡……起きちゃうかも!)
ジュディのような幸運が、自分にも待っていそうな気がして嬉しかったのである。
* * * *
「――失礼しまーす……」
家と同じなので、愛美がノックせずに園長室のドアを開けると、園長先生はニコニコ笑って彼女を待っていた。
「愛美ちゃん、待ってたのよ。お座りなさいな。急に呼んじゃって悪いわねえ」
「はい。――園長先生、わたしに何かご用ですか?」
愛美は応接セットのソファーに、聡美園長と向かい合う形で浅く腰かけた。
若葉聡美園長は六十代半ばの穏やかな女性で、愛美を始めとするここの子供たちにとっては優しいおばあちゃんのような存在である。
「ええ。あなたに大事な話があるの。――その前に、今しがたお帰りになった方、愛美ちゃんも見かけたかしら?」
「あ、はい。後ろ姿だけチラッとですけど……。あの方、理事さんなんですか? ずいぶんお若く見えましたけど」
「ええ。二年くらい前に理事になられて、この施設に多額の援助をして下さってる方なの。ただ、ご事情がおありだとかで、本名は伏せてほしいって言われてるんだけれど」
「はあ……、そうなんですか」
愛美は面食らった。先ほど見かけただけのあの理事は、聞いた限りではちょっと変わり者のようだ。
けれど、園長先生だってわざわざ「あの理事さん、変わっててねぇ」なんて世間話をするためだけに愛美を呼んだわけではないだろう。
「あの方、これまでここの男の子たちには目をかけて下さって、二人ほどあの方のおかげで私立に進学できた子がいるの。ただ、女の子はその対象からは外れてたのよ。理由は分からないけれど、もしかしたら女の子が苦手なのかしらねぇ」
「はあ……」
愛美が何だかよく分からない相槌を打っていると、園長はガラリと口調を変え、真剣そのものの表情で愛美に訊いた。
「愛美ちゃん。あなたは確か、県外の高校への進学を希望してるんだったわね?」
「……はい。難しいっていうのはよく分かってますけど」
愛美もいよいよ本題に入ったのだと察し、姿勢を正して答えた。
「実は今日、あなたの担任の先生からお電話を頂いてね。今日の理事会でも、あなたの進路について急きょ話し合うことになったの」
「はい……」
一体、どんな話し合いがされたんだろう? ――愛美は固唾を飲んで、園長先生の話の続きを待った。
「愛美ちゃんも知ってるでしょうけれど、この〈わかば園〉は経営が苦しくて、愛美ちゃんの希望どおり、私立の高校へは進ませてあげられないの」
「それは分かってます」
愛美が堅い表情で頷くと、園長先生は表情を少し和らげ、申し訳なさそうに続けた。
「愛美ちゃん、あなたには本当に感謝してるし、申し訳ないとも思ってるのよ。私たち職員の手が回らない分、小さい子たちのお世話や施設の仕事も手伝ってもらって」
「いえ、そんな! わたしが進んでやってることですから、気にしないで下さい!」
それは、弟妹たちやこの施設が大好きだから。ただみんなの役に立ちたくてやっているだけだ。
「そう? それならいいんだけれど……。でもね、私はあなたの夢を知ってるし、応援してあげたいの。だから、進学はするべきだと思うわ」
「えっ!? でも――」
「話は最後まで聞きなさい、愛美ちゃん」
言っていることが矛盾している、と抗議しかけた愛美を、聡美園長がたしなめる。
「私が理事会のみなさんにそう言ったらね、先ほどのあの方が私に賛同して下さって。『彼女の文才をこのまま埋もれさせるのは惜しい』って」
「えっ? いま、〝文才〟って……」
「そうなの。あの方ね、中学校の担任の先生からお借りしてきたあなたの作文をここで読み上げられたの。あれには他の理事さんたちもビックリされてたわ」
「作文?」
「ええ。夏休みの宿題で書いていたでしょう? 『わたしの家族』っていう題名の」
「ああ、あれかぁ」
「そう。あの人、その作文の内容にいたく感動されてね、『彼女は進学させるべきだ!』って強く主張なさって。自分が援助するとまでおっしゃって下さったのよ」
「え……。じゃあわたし、進学できるんですか!?」
聞き間違いかと思い、愛美がビックリして大きな声を出すと、園長は大きく頷いた。
「ええ。あの方も、あなたの夢を応援したいそうよ。そのための援助は惜しまないっておっしゃってたわ。……ただね、あの方からは色々と条件を出されたんだけれど」
「条件……ですか?」
進学できると浮き足立っていた愛美は、園長先生のその言葉を聞いて改めて背筋を伸ばした。
「まず、受験するように勧められた高校なんだけれど。横浜にある女子大付属高校なの。――ここよ」
園長がそう言って、ローテーブルの上にパンフレットを置いた。それは、高校の入学案内。
「私立……茗倫女子大学付属……。横浜ってことは県外ですよね」
愛美は表紙に書かれた文字を読んだ。
本当は県内の高校がよかったのだけれど、そんなわがままを言っていい立場ではないことくらい、彼女自身も分かっている。
「そうなの。ここは名門の女子校でね、全寮制なの。寮に入れば、住むところには困らないだろうって。それでね、愛美ちゃん。学校や寮の費用は全額あの方が負担して下さって、直接学校に振り込まれるんだけれど。そのうえで、あなたにも毎月お小遣いを下さるそうなのよ。一ヶ月で三万五千円も」
「さ……っ、三万五千円!? すごい大金……」
高校生のお小遣いにしては、多すぎはしないだろうかと愛美は目をみはった。
「そうよねえ。ここにいる間、あなたには十分なお小遣いをあげられてなかったものねえ。でもね、あの学校でやっていくには、その金額が最低ラインなんじゃないかってあの方がおっしゃるのよ」
「そうなんですか」
そういえば、〝名門〟だと園長先生がさっき言っていたっけ。お嬢さま学校でみんなと同じように生活していくには、やっぱりそれくらいのお金が必要なのだろうか。
「とりあえず、高校三年間は援助を続けて下さるそうよ。卒業後にそのまま大学へ進むか、就職するかはあなたに任せたいって」
「そうですか。……もし大学に進んでも、援助は続けて頂けるんでしょうか?」
大学までとなると、学費もバカにならない。そこまで見ず知らずの人の厚意に甘えていいものかと、愛美は思ったけれど。
「ごめんなさい、そこまでは聞いてないわ。その時が来たら、またあなた自身から相談すればいいんじゃないかしら」
「そうですね……」
まだそんな先のことまでは考えられない。まずは、進学できることになったことを喜ぶべきだろう。
「――それでね、あなたに出された条件は、毎月お手紙を出すことだそうよ。それもお金のお礼なんていいから、あなたの学校生活のことや、日常のことを知らせてほしいんですって」
(……あ、やっぱり同じだ。『あしながおじさん』のお話と)
愛美はふとそう思った。あの物語の中でも、ジュディが院長から同じ内容の話を聞かされていたのだ。
「このデジタル全盛期の時代に変わってるでしょう? でも、あの方のお話では、文章力を養うには手紙を書くのが一番だって。それに、あなたの成長を目に見える形で残すには、メールよりも手書きの文字の方がいいからって」
「へぇー……。あの、手紙はどなた宛てに出したらいいんでしょうか? お名前、教えて頂けないんですよね?」
多分、何か偽名を指定されているはずだと愛美は思った。
あのお話の中では「ジョン・スミス」だけれど、あの人は一体どんな偽名を考えたんだろう……?
「一応、仮のお名前は『田中太郎』さんだそうよ。いかにも偽名って感じのお名前でしょう?」
「はい」
園長先生が笑いながらそう言うので、愛美も思わずつられて笑ってしまう。
「でも、それじゃ郵便が届かないから。宛て名は個人秘書の久留島栄吉さんにして出すように、って」
「分かりました。秘書さんからその〝田中さん〟の手に渡るってことですね? そうします」
個人秘書がいるなんて……! どれだけすごい人なんだろう?
「残念ながら、お返事は頂けないそうなの。自分からの手紙が、あなたのプレッシャーになるんじゃないかと心配されてるみたいでね。だから何か困ったことがあった時には、同じように久留島さん宛てにお手紙を出して相談するように、ともおっしゃってたわ」
「はい」
そして多分、秘書の名前で返事が来るはずだ。それも、今の時代だからパソコン書きの。
「愛美ちゃん。私も田中さんも、あなたの夢を心から応援してるのよ。だからあなたは何も心配しないで、安心して高校生活を楽しみなさい。あなた自身が信じる道を歩みなさい。あなたの人生なんだから」
園長先生はまっすぐに愛美を見つめ、真剣な、それでいて愛情に満ちた声でそう言った。
「はい……! 園長先生、ありがとうございます!」
愛美は嬉しさで胸がいっぱいになった。
――自分の人生。今まで、そんなこと一度も考えたことがなかったし、考える余裕もなかった。
いつも弟妹たちや施設のことばかり考えて、自分のことは二の次で。でも、「これでいいんだ」と思ってきた。
けれど、進路と向き合うということは、自分のこれからの人生と向き合うということなんだと、愛美は気づいたのだ。
――ボーン、ボーン ……。園長室の柱に取り付けられた、年季の入った振り子時計が九時を告げた。
「長い話になってしまってごめんなさいね。明日も学校があるでしょう? そろそろお部屋に戻りなさい」
「はい。園長先生、おやすみなさい。失礼します」
聡美園長にお辞儀をして、愛美は退室した。
(ウソ……? 信じられない! ホントに奇跡が起きちゃった……!)
二階の部屋まで戻る途中、愛美は春から訪れるであろう新しい生活に、ワクワクと少しの不安とで胸を膨らませていたのだった――。
――それから半年が過ぎ、季節は春。愛美が〈わかば園〉を巣立(すだ)つ日がやってきた。「――愛美ちゃん、忘れ物はない?」「はい、大丈夫です」 大きなスポーツバッグ一つを下げて旅立っていく愛美に、聡美園長が訊ねた。「大きな荷物は先に寮の方に送っておいたから。何も心配しないで行ってらっしゃい」「はい……」 十年以上育ててもらった家。旅立つのが名残(なごり)惜しくて、愛美はなかなか一歩踏み出せずにいる。「愛美ちゃん、もうタクシーが来るから出ないと。ね?」 園長だって、早く彼女を追いだしたいわけではないので、そっと背中を押すように彼女を促(うなが)した。「はい。……あ、リョウちゃん」 愛美は園長と一緒に見送りに来ている涼介に声をかけた。「ん? なに、愛美姉ちゃん?」「これからは、リョウちゃんが一番お兄ちゃんなんだから。みんなのことお願いね。先生たちのこと助けてあげるんだよ?」 この役目も、愛美から涼介にバトンタッチだ。「うん、分かってるよ。任せとけって」「ありがとね。――園長先生、今日までお世話になりました!」 愛美は目を潤(うる)ませながら、それでも元気にお礼を言った。 ――動き出したタクシーの窓から、だんだん小さくなっていく〈わかば園〉の外観を切なく眺めながら、愛美は心の中で呟いた。(さよなら、わかば園。今までありがとう) 駅に向かう道のりは長い。朝早く起きた愛美は襲(おそ)ってきた眠気に勝てず、いつの間にか眠っていた――。 * * * * JR(ジェイアール)甲(こう)府(ふ)駅から特急で静岡(しずおか)県の新富士(ふじ)駅まで出て、そこから新横浜駅までは新幹線。 そこまでの切符(チケット)は全て、〝田中太郎〟氏が買ってくれていた。(田中さんって人、太っ腹だなあ。入試の時の往復の交通費も出して下さったし) 新幹線の車窓(しゃそう)から富士山を眺めつつ、愛美は感心していた。自分が指定した高校を受験するからといって、一人の女の子に対してそこまで気前よくするものだろうか? もし合格していなかったら、入試の日の交通費はドブに捨てるようなものなのに。(ホントにその人、女の子苦手なのかな……?) 園長先生がそんなことを言っていた気がするけれど。自分にここまでしてくれる人が、女の子が苦手だとはとても思えない。 もしも本当
――愛美の高校生活がスタートしてから、早や一ヶ月が過ぎた。「愛美、中間テストの結果どうだった?」 授業が終わった後、二〇六号室に遊びに来ていたさやかが愛美に訊いた。 最初は殺風景だったこの部屋も、さやかと二人で買い揃えたインテリアのおかげで過ごしやすい部屋になった。 カーテンにクッション、センターラグに可愛い座卓。三年生が開催していたフリーマーケットで安く買えたものばかり。さやかのセンスはピカイチだ。「うん、よかったよ。学年で十位以内に入った」「えっ、マジ!? スゴいじゃん!」 愛美やさやかの学年は、全部で二百人いる。その中の十位以内というのだから、大したものだ。「そうかなあ? でもね、あしながおじさんが援助してくれなかったら、わたし住み込みで就職するしかなかったんだ」「へえ、そうなんだ……。じゃあ、そのおじさまにはホントに感謝だね」 さやかにも珠莉にも、あしながおじさんのことは打ち明けてある。二人とも、愛美のネーミングセンスは「なかなか個性的だ」と言っている。 ……もっとも、このニックネームの出どころがアメリカ文学の『あしながおじさん』だということは話していないけれど。「うん、ホントにね。――ところで、さやかちゃんと珠莉ちゃんの方はどうだったの? 中間テスト」「…………う~~、ボロボロ。というわけで明日、補習あるんだ。二人とも」「あれまぁ、大変だねえ……」「そうなのよ~。高校の勉強ってやっぱ難しくなってるよね」 さやかだって、中学まではそれほど成績も悪くなかったはずだ。……珠莉の方はどうだか知らないけれど。「でもさ、愛美は勉強はできるけど流行には疎(うと)いじゃん? こないだだって『〝あいみょん〟ってこの学年の子?』って訊いてたし。タピオカも知らなかったでしょ?」 さやかが愛美のやらかしエピソードを暴露した。 人気シンガーソングライター〝あいみょん〟を「この学年の子?」と言ってしまったのは、入学して間もない頃のことである。その話が学年全体に広まってしまったせいで、愛美は〝ボケキャラ〟認定されてしまったのだ。「あれは……、ボケとかじゃなくてホントに知らなかったの! 施設にいた頃はあんまりTVも観られなかったし、近くにコンビニもなかったから」 流行に疎い愛美は、周りの子たちの会話になかなかついて行けない。さやかがいてくれな
――六月。横浜もすっかり梅雨(つゆ)入りしており、茗倫女子大付属の制服も夏服――リボン付きの白い半袖ブラウスにグレーのハイウエストのジャンパースカート――へと衣替えした。「はい、愛美。じっとして、動かないで!」 ここは〈双葉寮〉の二〇七号室。さやかと珠莉の部屋である。 放課後のひととき、長い黒髪が自慢(?)の愛美は、さやかの手によってそのロングヘアーをいじられ……もといアレンジされていた。「――はい、できた! 愛美、鏡見てみなよ。すごく可愛くなったから」「えっ、どれどれ? ……わあ、ホントだ!」 さやかから差し出されたスタンドミラーを覗き込んだ愛美は、歓声を上げた。 鏡に写っている愛美の髪形は、プロの美容師がやってくれるような編み込みが入った可愛いヘアスタイルになっている。TVの中のアイドルや女優・モデルなどがよくしているのを、愛美も見ていた。「スゴ~い、さやかちゃん! 手先、器用なんだね。もしかして美容師さん目指してるの?」「ううん、そんなんじゃないんだけどさ。ウチ、小さい妹がいてね。中学時代はよく妹の髪いじってたんだ」 さやかの口から、父親以外の家族の話題が出たのは初めてだ。 「妹さん? 今いくつ?」「今年で五歳。この春から幼稚園に通ってるよ」「へえ……。可愛いだろうね」 愛美はそう言って、山梨にある〈わかば園〉の幼い弟妹たちに思いを馳(は)せた。 施設を出るまで、愛美がずっと世話してきた可愛い弟妹たち。みんな元気かな? 今ごろみんなどうしてるんだろう――?「――っていうかさ、愛美。たまには違うヘアースタイルにするのもいいもんでしょ? いつも下ろしてるから。暑くなってきてるしさ」「うん。たまにはいいかもね。だってわたし、中学の頃はずっと三つ編みかお下げしかしてなかったんだよ」「え~、もったいない。こんなにキレイな髪してるのに。好きな人もできたことだしさ、ちょっとはオシャレに気を遣ってもいいかもよ?」 さやかが茶化すように言って、ウシシと笑う。〝好きな人〟というフレーズに、愛美の顔が赤く染まった。 まだ恋を自覚して半月ほどしか経っていないのだ。しかも初恋なので、この状況に慣れるにはまだまだ時間がかかるのである。「もうっ! さやかちゃん、からかわないでよっ! わたし、まだ恋バナとか慣れてないんだから!」「はいはい、分か
――夏休みが終わる一週間前、愛美は〈双葉寮〉に帰ってきた。「お~い、愛美! お帰り!」 大荷物を引きずって二階の部屋に入ろうとすると、一足先に帰ってきていたさやかが出迎えてくれて、荷物を部屋に入れるのを手伝ってくれた。「あ、ありがと、さやかちゃん。ただいま」「どういたしまして。――で、どうだった? 農園での夏休みは。楽しかった?」 さやかはそのまま愛美の部屋に残り、愛美の土産(みやげ)話を聞きたがる。 愛美はベッドに腰かけ、座卓の前に座っているさやかに語りかけた。「うん、楽しかったよ。農作業とか色々体験させてもらったし、お料理も教えてもらったし。すごく充実した一ヶ月間だった」「へえ、よかったね」「うん! いいところだったよー。自然がいっぱいで、空気も澄んでて、夜は星がすごくキレイに見えたの。降ってくるみたいに。あと、お世話になった人たちもみんないい人ばっかりで」「星がキレイって……。アンタが育った山梨もそうなんじゃないの?」 〝田舎(いなか)〟という括(くく)りでいうなら、長野も山梨もそれほど違わないと思うのだけれど。――ちなみに、ここでいう〝田舎〟とは「〝都会〟に対しての〝田舎〟」という意味である。「そうかもだけど。ここに入るまでは、星なんてゆっくり見てる余裕なかったもん」 施設にいた頃の愛美は、同室のおチビちゃんたちのお世話に職員さんのお手伝い、学校での勉強に進路問題にと忙しく、心のゆとりなんてなかったのだ。「あ、そうだ。あのね、わたしがお世話になった農園って、純也さんとご縁があったの。昔は辺唐院家の持ちもので、子供の頃に喘息持ちだった純也さんがそこで療養してたんだって」 彼の喘息が完治したのは、あの土地の空気が澄んでいたからだろう。「でね、純也さんと電話でちょっとお話できたんだ♪」「へえ、よかったじゃん。……で? 愛美はますます彼のこと好きになっちゃったんだ?」「……………………うん」 さやかにからかわれた愛美は、長~い沈黙のあとに頷いて顔を真っ赤に染めた。思いっきり図星だったからである。(ヤバい! また顔に出ちゃってるよ、わたし! もうホントにスルースキルが欲しいよ……) 純也さんとは電話で話しただけだったけれど、あの時でさえ胸の高鳴りを抑(おさ)えられなかった。もしも本人と対面して話していたら……と思うと、何だ
――三学期が始まって、一週間ほどが過ぎた。「見てみて、愛美! 短編小説コンテストの結果が貼り出されてるよ!」 一日の授業を終えて寮に戻る途中、文芸部の部室の前を通りかかるとさやかが愛美を手招きして呼んだ。「今日だったんだね、発表って。――ウソぉ……」 珠莉も一緒になって掲示板を見上げると、愛美は自分の目を疑った。「スゴいじゃん、愛美! 大賞だって!」「…………マジで? 信じらんない」 思わず二度見をしても、頬をつねってみても、その光景は現実だった。【大賞:『少年の夏』 一年三組 相川愛美 〈部外〉】 「確かに愛美さんの小説のタイトルね。あとの入選者はみんな文芸部の部員さんみたいですわよ?」「ホントだ。ってことは、部員外で入選したの、わたしだけ?」 まだ現実を受け止めきれない愛美が呆然(ぼうぜん)としていると、部室のスライドドアが開いた。「相川さん、おめでとう! あなたってホントにすごいわ。部外からの入選者はあなただけよ。しかも、大賞とっちゃうなんて!」「あー……、はい。そうみたいですね」 興奮気味に部長がまくし立てても、愛美はボンヤリしてそう言うのが精いっぱいだった。「表彰式は明日の全校朝礼の時に行われるんだけど。あなたには才能がある。文芸部に入ってみない?」「え……。一応考えておきます」「できるだけ早い方がいいわ。あなたが二年生になってからじゃ、私はもう卒業した後だから」「……はあ」 愛美は部長が部室に引き上げるまで、終(しゅう)始(し)彼女の勢いに押されっぱなしだった。「――で、どうするの?」「う~ん……、そんなすぐには決めらんないよ。誘ってもらえたのは嬉しいけど」「まあ、そうだよねえ」 今はまだ、大賞をもらえたことに実感が湧かないけれど。気持ちの整理がついたら、文芸部に入ってもいいかな……とは思っている。「そうだ愛美。このこと、おじさまに報告しなくていいの?」 さやかに言われるまで、そのことを忘れかけていた愛美はハッとした。「そっか、そうだよね。わたし、そこまで考えてなかった。ありがと、さやかちゃん!」 愛美の夢に一番期待してくれているのは、〝あしながおじさん〟かもしれないのだ。だとしたら、この喜ばしい出来事を真っ先に彼に報告するのがスジというものである。「きっとおじさまも、愛美さんの入選を喜んで下
****『拝啓、あしながおじさん。 わたしが横浜に来て、二度目の春がやってきました。そして、高校二年生になりました! 今年は一人部屋じゃなく、さやかちゃんと珠莉ちゃんと三人部屋です。お部屋の真ん中に勉強スペース兼お茶スペースがあって、その周りに三つの寝室があります。でも、ルームメイトだったらそれぞれの寝室への出入りは自由なんだそうです。 そして、わたしは文芸部に入ることにしました。小説家になるには、個人で書くだけじゃ多分、人から読んでもらう機会は少ないと思うので。もっとたくさんの人の目に触れるには、その方がいいと思うんです。 今年は一年生の頃よりもたくさんの本を読んで、たくさんの小説を書こうと思います。 一年前、わたしは孤独でした。でも今は、さやかちゃんと珠莉ちゃんという頼もしい親友がいるので、もう淋しくありません。 ではまた。これからも見守っててくださいね。 かしこ 四月四日 二年生になった愛美 』**** ――新学期が始まって、一週間が過ぎた。「愛美、結局文芸部に入ることにしたんだ?」 夕方、授業を終えて寮に帰る道すがら、さやかが愛美に訊いた。――ちなみに、もちろん珠莉も一緒である。「うん。せっかく誘ってもらってたしね。あの時の部長さんはもう卒業されちゃっていないけど、大学でも文芸サークルに入ってるんだって。たまに顔出されるらしいよ」 愛美は春休みの間にそのまま茗倫女子大に進学した彼女を訪ね、わざわざ大学の寮まで出向いた。 大学の寮〈芽生(めばえ)寮〉は、この〈双葉寮〉よりもずっと大きくて立派だった。外部からの入学組も多いため、収容人数も高校の寮の比ではない。「へえ、そっか。喜んでたでしょ、先輩」「うん。二年生だけど、新入部員だからなんかヘンな感じだね」「そんなことないよ。むしろ新鮮だって思うべきだね、そこは」 上級生になったからって、いきなり先輩ヅラする必要はない。一年後輩の子たちとも、新入部員同士で仲良くなれたらそれでいい。そうさやかは言うのだ。「そうだね。――ところで、二人はもう部活決めた?」 一年生の時は、それぞれ学校生活に慣れるのに必死だろうからと、部活のことは特に言われなかったけれど。二年生にもなれば、各々(おのおの)入りたい部活ややりたいことも見つかるというもので
――それから数週間が過ぎ、G.W.(ゴールデンウィーク)が間近に迫った頃。「相川さん、お疲れさま。もう部活には慣れた?」 文芸部の活動を終えて、部室を出ていこうとしていた愛美は、三年生の部長に声をかけられた。 彼女は前部長が卒業するまでは副部長をしていて、三年生に進級したと同時に部長に昇格した。お下げの黒髪がよく似合い、シャレた眼鏡(メガネ)をかけているいかにもな〝文学少女〟である。名前は後(ご)藤(とう)絵美(えみ)という。「あ、お疲れさまです。――はい、すっかり。すごく楽しいです」「よかった。あたしも冬のコンテストの大賞作読んだよー。すごく面白かった。さすが、千香(ちか)先輩が見込んだだけのことはあるわ」「いえ……、そんな。ありがとうございます」 愛美は何だか恐縮して、控えめにお礼を言った。――ちなみに、前部長の名前は北原(きたはら)千香というらしい。 一年生の新入部員の子たちと一緒に入部した愛美は、最初の頃こそ「相川先輩」「愛美先輩」と呼ばれ、一年生たちから少し距離を置かれていたし、愛美自身も一年下の〝同期〟にどう接していいのか分からずにいたけれど。 最近では一歳くらいの年の差なんてないも同然で、一年生の子も気軽に声をかけてくれるようになった。敬語は使われるけれど、同じ小説や文芸作品を愛する仲間だ。「来月に出す部誌は、新入部員特集号だから。巻頭は相川さんの作品を載せることにしたんだよ」「えっ、ホントですか!? ありがとうございます!」 愛美も今度は、思わず大きな声でお礼を述べた。 新入部員とはいえ、自分は二年生だから、一年生の子に花を持たせてやりたいと思っていたのだ。「うん。あの作品、みんなから評判よくてね。満(まん)場(じょう)一(いっ)致(ち)で巻頭に載せるって決まったの」「そうなんですか……。なんか、一年生の子たちに申し訳ないですけど、でもやっぱり嬉しいです。――じゃあ、失礼します」 後藤部長に会釈して、愛美は親友であるさやかと珠莉の待つ寮の部屋に帰った。 それぞれ陸上部と茶道部に入った二人(さやかは陸上部・珠莉は茶道部)は、今日は部活が休みだと言っていたのだ。「――ただいまー」「あ、愛美。お帰りー」 部屋に入ると、すでに長袖パーカーとデニムパンツに着替えていたさやかが出迎えてくれた。 珠莉はスマホを手に、
――愛美たちの原宿散策から一ヶ月が過ぎ、横浜は今年も梅雨入りした。「――愛美、あたしこれから部活だから。お先に」 終礼後、スポーツバッグを提げたさやかが愛美に言った。「うん。暑いから熱中症に気をつけてね」 梅雨入りしたものの、今年はあまり雨が降らない。今日も朝からよく晴れていて蒸し暑い。屋外で練習する陸上部員のさやかには、この暑さはつらいかもしれない。「あら、さやかさんもこれから部活? 私もですの」「アンタはいいよねー。冷房の効いた部室で活動できるんだもん」「そうでもないですわよ? お茶を点(た)てるときのお湯は熱いし、着物も着なくちゃならないから」 珠莉は茶道部員である。さすがに活動のある日、毎回和装というわけではないけれど、定期的に野(の)点(だて)を開催したりするので、大変は大変なのだ。「へえー、そういうモンなんだぁ。どこの部も、ラクできるワケじゃないんだねー。――愛美も今日は部活?」「ううん。文芸部(ウチ)は基本的に自由参加だから、わたしは今日は参加しないよ」「え~~~~、いいなぁ。……じゃあ行ってくるね」「うん。行ってらっしゃい」 親友二人を見送り、自分も教室を出ようと愛美が席を立つと――。「相川さん、ちょっといいかしら?」 クラス担任の女性教師・上村(うえむら)早苗(さなえ)先生に呼び止められた。 彼女は四十代の初めくらいで、国語を担当している。また、愛美が所属している文芸部の顧問でもあるのだ。「はい。何ですか?」「あなた、今日は部活に参加しないのよね? じゃあこの後、ちょっと私に付き合ってもらってもいい? 大事な話があって」「はあ、大事なお話……ですか? ――はい、分かりました」(大事な話って何だろう? まさか、退学になっちゃうとか!?) 愛美は頷いたものの、内心では首を傾げ、イヤな予感に頭を振った。 (そんなワケないない! わたし、退学になるようなこと、何ひとつしてないもん!) とはいうものの、先生から聞かされる話の内容の予想がまったくできない愛美は、小首を傾げつつ彼女のあとをついて行った。 * * * *「――相川さん、ここで座って待っていてね。先生はちょっと事務室でもらってくるものがあるから」「はい」 通されたのは職員室。上村先生は、その一角の応接スペースで待っているように愛美に伝
****『拝啓、あしながおじさん。 お元気ですか? わたしは今日も元気です。……って書くのも、もう三年目なんだなぁ。 いよいよ高校生活で最終学年の三年生になりました! さやかちゃんと珠莉ちゃんとは、寮のお部屋もクラスも卒業まで一緒です。 二年生の学年末テストではちょっと順位を落としてしまいましたけど、それでも無事に進級できました。まあ、今回は体調が悪かったからじゃないけど。 学校の勉強をしながら、作家として長編の原稿を執筆。そのうえ編集者の岡部さんから〈イマジン〉への短編小説の掲載のお話も受けて、そっちの執筆もあったものだからもう大変で! でも、小説を書くのはやっぱり楽しいです。こうして、自分が好きでやりたかったことを仕事にできてるのはおじさまのおかげ。進学させてもらえて、おじさまにはホントに感謝してます。 三年生に上がって、文芸部の部長にもなりました。新入部員、いっぱい入ってほしいな。 あと、わたしは今日で十八歳になりました。法律上は成人ってことです。参政権もあるし、これで少しは純也さんに追いつけるかな……。彼とは対等な立場でお付き合いがしたいから。 そして、来年は三人とも大学に進みます。他の大学へ進学する子もいるけど、わたしとさやかちゃん、珠莉ちゃんはもちろんそのまま茗倫女子大に進むことにしてます。 わたしはもちろん文学部国文科、珠莉ちゃんは将来のことも考えて経済学部に進むことに決めてますけど、さやかちゃんが意外な学部に進みたいって言ってるんです。それはなんと、福祉学部! どうも児童福祉の道に進みたいらしくて。 わたしの境遇とか、リョウくんの境遇を聞いて思うところがあったらしくて。いつかは〈わかば園〉みたいな児童養護施設で働きたいって。でも、教員免許が必要になるから教育学部の方がいいかな、とも言ってます。 わたしは彼女の決意がすごく嬉しくて。さやかちゃんなら、そういう仕事が向いてると思うから。でも、養護施設にこだわる必要はなくて、たとえば児童相談所とか、虐待やネグレクトに遭ってる子供たちを助けるNPOとかに就職してもいいんじゃないかなって思ってます。 わたしも負けてられない! 今書いてる長編小説を最後まで書き上げて、必ず出版にまでこぎつけます。その前に短編集が発売されるかも。その時はおじさま、ぜひ買って読んで下さいね。あと、聡美園長に
――今年も大晦日がやってきた。 でも、この辺唐院家には「家族みんなで大掃除」や「お正月の準備」という概念は存在しない。そういうことはすべて、家政婦の由乃さんやメイドさんなどの使用人の仕事となっているから。 そのため、珠莉の家族や純也さん、親族は今日もみんな思い思いに過ごしている。……もっとも、愛美と純也さんは「何か手伝うことはありますか?」と由乃さんに声をかけては「これは私どもの仕事でございますから」とことごとく断られたので、「いいのかなぁ?」とちょっと申し訳ないような気持ちでいたのだけれど……。少なくとも貧乏性の愛美は。(やっぱりさやかちゃんのお家とは違うんだなぁ……。なんか落ち着かない) そんなわけで、愛美は部屋にこもって自分のノートパソコンで長編の原稿を執筆していたのだけれど。お昼前になって、コンコンと部屋のドアがノックされた。「――はい」「あ、俺だよ。純也だけど」「待ってね、今開けるから」 ドアを開けると、普段着ではなく外出用の服装をした純也さんが立っている。対して愛美は、部屋着ではないもののちょっと外出には向かないような格好をしていた。そして、パソコンの執筆画面も開きっぱなしだ。「……愛美ちゃん、ごめん。原稿書いてたか。ジャマしちゃったかな」「ううん、そんなことないけど。純也さん、どうしたの?」「今日ヒマだし、二人でどこか出かけないか? ……って誘いに来たんだけど。愛美ちゃん、仕事中ならやめとこうか?」 どうやらデートのお誘いに来てくれたのに、彼に気を遣わせてしまったらしい。愛美だって本当は他にやることがないから執筆をしていただけで――学校の冬休みの宿題はとっくに終えていたので――、気分転換も必要だ。それが大好きな人とのデートなら何も言うことはない。「ううん、行きたい! わたしもそろそろ息抜きしようと思ってたところなの。じゃあ、ちょっと着替えたいから……」 今の格好のままで出かけるのはちょっと気が退ける。でも、愛美はお年頃の女の子なので、男の人の前では着替えにくい。それが恋人だとしても、である。「分かった。じゃあ俺は、着替えが終わるまで廊下で待ってるから。着替え終わったら声かけてね」「うん」 純也さんが部屋を出てから、愛美はしばし服選びに悩む。 今日は初デートというわけではないから、そんなにバッチリオシャレをする必要
――愛美は「ドキドキして眠れない……」と思いつつも、フカフカのベッドでぐっすり眠り、翌朝七時前に目が覚めた。「わ……とうとう来ちゃった。純也さんとの初デートの日……」 室内にある洗面台で、冷たい水で洗顔をしてパッチリと目が覚めた愛美は、クローゼットの扉を開けた。 寮から持ってきた服はすべて、このクローゼットに移してある。ほとんどがこの家に滞在するために新しく買った服だ。「初デートか……。今日、何着て行こうかな……」 純也さんは基本、愛美がどんな服を着ていても「可愛い」「似合ってるよ」と言ってくれる人だけれど。デートとなると、やっぱり普段とは違う格好がしたくなる。いつもと違う自分を彼に見てほしいというのがオトメ心というものだ。「……買ったばっかりの赤いニットワンピース、これにしよう。寒いから黒のタイツを穿いて、足元は茶色のブーツで……。あとはコートを着れば完璧かな」 ニットワンピースはオーバルネックなので、中にピンク色のカラーシャツを着込む。第二ボタンまで開けて、身に着けた〝あしながおじさん〟から贈られたネックレスが見えるようにした。「ヘアメイクはまた珠莉ちゃんにお願いしよう」 髪型はともかく、簡単なメイクくらいは自分でできるようになりたいなぁと愛美は思う。たとえば口紅を塗るくらいは……。「――愛美さん、おはよう。昨夜はよく眠れて?」 コンコン、とドアがノックされて、開いたドアから珠莉が顔を出した。「おはよ、珠莉ちゃん。うん、おかげさまで。……初デートの前だし、ドキドキして眠れないかと思ったけど」「それはよかったわ。――純也叔父さまがね、朝食は二階のダイニングで、三人だけで食べましょうっておっしゃってるんだけど。あなたもそれでよろしくて?」「うん、いいよ。っていうか二階にもダイニングがあるんだ?」 ダイニングルームって、一軒の家に一ヶ所しかないものだと思っていたので、愛美はまた驚いた。 確かに昨日の今日で、珠莉の両親や祖母と顔を突き合わせて朝食……というのは愛美のメンタルにかなりの悪影響が出そうだ。特に、珠莉の母親の顔を見たら何をするか分からないので自分でも怖い。「ええ。じゃあ、朝食は八時ごろにね。――あら、ずいぶん気合いを入れてオシャレしたのねぇ。叔父さまもきっと『可愛い』『ステキだ』って褒めて下さるわよ」「えっ、ホントに?
――そして、二学期終業式の日の午後。「さやかちゃん、治樹さんたちによろしくね。よいお年を!」「うん、ちゃんと伝えとくよ。愛美もよいお年を」「さやかさん、治樹さんに連絡を下さるようお伝え下さいな」「分かった。それも伝えとくから。っていうか珠莉、自分で伝えなよー」 双葉寮のエントランスで、愛美と珠莉はさやかと別れた。さやかは電車で埼玉の実家に帰るけれど、二人には珠莉の実家から迎えの車が来ることになっているのだ。「――あ、辺唐院さん。お迎えが来たみたいよ」 寮母の晴美さんが、玄関前に停まった一台の高級リムジンに気がついて珠莉に声をかけた。「あら、ホント。じゃあ愛美さん、行きましょうね」「うん」 運転席から降りてきたのは五十代~六十代くらいの穏やかそうな男の人で、珠莉の姿を認めると深々と彼女に頭を下げた。「――珠莉お嬢様、旦那様と奥様のお言いつけどおりお迎えに上がりました。……そちらのお嬢さんは?」「ありがとう、平(ひら)泉(いずみ)。彼女は相川愛美さん。私のお友達よ」「お嬢様のお友達でございましたか。これは失礼を致しました。わたくしは辺唐院家の執事兼運転手の平泉でございます。ささ、どうぞ後部座席にお乗り下さいませ」「あ……、ありがとうございます。失礼します」 愛美はちょっと緊張しながら、珠莉は悠然と車に乗り込んだ。(わぁ……、すごく豪華な車。施設で空想してたリムジンの中ってこんな風になってたんだ) 広々とした車内、ゆったりとした対面式のフカフカのシートは座り心地もバツグン。 あの頃空想して楽しんでいた「リムジンに乗るお嬢様」が、今目の前にいる珠莉と重なって見える。「……どうしましたの? 愛美さん」 まじまじと物珍しく眺めていたら、珠莉と目が合ってしまった。首を傾げられて、愛美はちょっと気まずくなった。「あ、ううん。施設にいた頃にね、ちょうど今みたいな状況を空想して遊んでたなぁって。珠莉ちゃん見てて思い出したの」「あら、そうでしたの。愛美さんの空想好きは昔からでしたのね。ホント、作家になるために生まれてきたような人ね、あなたは」「珠莉ちゃん……、それって褒めてる? 貶(けな)してる?」 珠莉のコメントはどちらとも取れる言い方だったため、愛美は念のため確かめた。「もちろん褒めてるのよ。私は感心してるの。周りの意見に振り回さ
――作家デビューしてからの愛美の日常は、それまでと比べものにならないくらいめまぐるしく過ぎていった。 学校の勉強では、奨学生になった身なので成績を落とすことが許されず、中間テストでも学年で五位以内に入る成績を修めた。――もっとも、彼女は元々勤勉で、勉強でも手を抜いたことはないのだけれど。 そして、作家デビューが決まった文芸誌〈イマジン〉では二ヶ月連続で彼女の短編作品が掲載されることになり、勉強と同時にその原稿の執筆にも追われた。「相川先生はまだ高校生なんですから、あくまでも学業優先でいいですよ」 と担当編集者の岡(おか)部(べ)さん(ちなみに、男性である)は言ってくれたけれど、一応はプロになり、原稿料ももらう立場になったのでそれもキッチリこなさなければと真面目な愛美は思ったわけである。 純也さんからは、〝あしながおじさん〟宛てに作家デビューが決まったことを知らせる手紙を出した数日後、スマホにお祝いのメッセージが来た。『珠莉から聞いたよ。おめでとう! 僕も嬉しいよ(≧▽≦) 頑張れ☆』 本当に珠莉が知らせてくれたのだとは思うけれど、もしかしたら手紙の返事だったのではないかと愛美は思っている。 でなければ、珠莉から知らされたその日のうちにメッセージが来なかった理由の説明がつかないから。 ――そうして迎えた、高校生活二年目の十一月末。「ねえ愛美さん、今年の冬休みは我が家にいらっしゃいよ」 愛美を家に招待してくれたのは、意外にもさやかではなく珠莉だった。「えっ? あー、うん。わたしは別に構わないけど……」 さやかはどう思うのだろう? 去年の冬がすごく楽しかったから、今年の冬も愛美と一緒に過ごすのを楽しみにしてくれているかもしれないのに。「ああ、ウチのことなら気にしないでいいよ。愛美がいない時でもあんまり変わんないから。っていうか、やっぱ埼玉より東京の方がいいっしょ?」 さやかは意味深なことを言った。〝東京〟で思い浮かぶ人といえば……。(もしかして、純也さんも東京にいるから、ってこと?) 彼も一応は東京出身だし、現住所も東京都内だ。もしかしたら、今年の冬は実家に帰ってくるかもしれない。 もちろん、愛美の勘繰りすぎという可能性もあるけれど……。「――っていうか、珠莉ちゃん。純也さんって実家にはほとんど寄りつかないって去年言ってたよね?
――純也さんとの恋が実った夜。愛美は自分の部屋で、スマホのメッセージアプリでさやかにその嬉しい報告をしていた。『さやかちゃん、わたし今日、純也さんに告白したの! そしたら純也さんからも告白されてね、お付き合いすることになったの~~!!!(≧▽≦)』「……なにコレ。めっちゃノロケてるよ、わたし」 打ち込んだメッセージを見て、自分で呆れて笑ってしまう。『っていうか、純也さんはもうわたしと付き合ってるつもりだったって! さやかちゃんの言ってた通りだったよ( ゚Д゚)』 愛美は続けてこう送信した。二通とも、メッセージにはすぐに既読がついた。 ――あの後、千藤家への帰り道に、純也さんが自身の想いを愛美に打ち明けてくれた。 * * * *『実はね、僕も迷ってたんだ。君に想いを伝えていいものかどうか』『……えっ? どうしてですか?』 愛美がその意味を訊ねると、純也さんは苦笑いしながら答えてくれた。『さっき愛美ちゃんも言った通り、君とは十三歳も年が離れてるし、周りから「ロリコンだ」って思われるのも困るしね。まあ、珠莉の友達だからっていうのもあるけど。――あと、僕としてはもう、君とは付き合ってるつもりでいたし』 『えぇっ!? いつから!?』 最後の爆弾発言に、愛美はギョッとした。『表参道で、連絡先を交換した時から……かな。君は気づいてなかったみたいだけど』『…………はい。気づかなくてゴメンなさい』 さやかに言われた通りだった。あれはやっぱり、「付き合ってほしい」という意思表示だったのだ!『君が謝る必要はないよ。初恋だったんだろ? 気づかないのもムリないから。こんな回りくどい方法を取った僕が悪いんだ。もっとはっきり、自分の気持ちを伝えるべきだったんだよね』『純也さん……』『でも、愛美ちゃんの方が潔(いさぎよ)かったな。自分の気持ちをストレートにぶつけてくれたから』『そんなこと……。ただ、他に伝え方が分かんなかっただけで』『いやいや! だからね、僕も腹をくくったんだ。年齢差とか、姪の友達だとかそんなことはもう取っ払って、自分の気持ちに素直になろうって。なまじ恋愛経験が多いと、余計なことばっかり考えちゃうんだよね。だからもう、初めて恋した時の自分に戻ろうって』 純也さんだってきっと、自分から女性を好きになったことはあるんだろう。それ
――愛美たちの原宿散策から一ヶ月が過ぎ、横浜は今年も梅雨入りした。「――愛美、あたしこれから部活だから。お先に」 終礼後、スポーツバッグを提げたさやかが愛美に言った。「うん。暑いから熱中症に気をつけてね」 梅雨入りしたものの、今年はあまり雨が降らない。今日も朝からよく晴れていて蒸し暑い。屋外で練習する陸上部員のさやかには、この暑さはつらいかもしれない。「あら、さやかさんもこれから部活? 私もですの」「アンタはいいよねー。冷房の効いた部室で活動できるんだもん」「そうでもないですわよ? お茶を点(た)てるときのお湯は熱いし、着物も着なくちゃならないから」 珠莉は茶道部員である。さすがに活動のある日、毎回和装というわけではないけれど、定期的に野(の)点(だて)を開催したりするので、大変は大変なのだ。「へえー、そういうモンなんだぁ。どこの部も、ラクできるワケじゃないんだねー。――愛美も今日は部活?」「ううん。文芸部(ウチ)は基本的に自由参加だから、わたしは今日は参加しないよ」「え~~~~、いいなぁ。……じゃあ行ってくるね」「うん。行ってらっしゃい」 親友二人を見送り、自分も教室を出ようと愛美が席を立つと――。「相川さん、ちょっといいかしら?」 クラス担任の女性教師・上村(うえむら)早苗(さなえ)先生に呼び止められた。 彼女は四十代の初めくらいで、国語を担当している。また、愛美が所属している文芸部の顧問でもあるのだ。「はい。何ですか?」「あなた、今日は部活に参加しないのよね? じゃあこの後、ちょっと私に付き合ってもらってもいい? 大事な話があって」「はあ、大事なお話……ですか? ――はい、分かりました」(大事な話って何だろう? まさか、退学になっちゃうとか!?) 愛美は頷いたものの、内心では首を傾げ、イヤな予感に頭を振った。 (そんなワケないない! わたし、退学になるようなこと、何ひとつしてないもん!) とはいうものの、先生から聞かされる話の内容の予想がまったくできない愛美は、小首を傾げつつ彼女のあとをついて行った。 * * * *「――相川さん、ここで座って待っていてね。先生はちょっと事務室でもらってくるものがあるから」「はい」 通されたのは職員室。上村先生は、その一角の応接スペースで待っているように愛美に伝
――それから数週間が過ぎ、G.W.(ゴールデンウィーク)が間近に迫った頃。「相川さん、お疲れさま。もう部活には慣れた?」 文芸部の活動を終えて、部室を出ていこうとしていた愛美は、三年生の部長に声をかけられた。 彼女は前部長が卒業するまでは副部長をしていて、三年生に進級したと同時に部長に昇格した。お下げの黒髪がよく似合い、シャレた眼鏡(メガネ)をかけているいかにもな〝文学少女〟である。名前は後(ご)藤(とう)絵美(えみ)という。「あ、お疲れさまです。――はい、すっかり。すごく楽しいです」「よかった。あたしも冬のコンテストの大賞作読んだよー。すごく面白かった。さすが、千香(ちか)先輩が見込んだだけのことはあるわ」「いえ……、そんな。ありがとうございます」 愛美は何だか恐縮して、控えめにお礼を言った。――ちなみに、前部長の名前は北原(きたはら)千香というらしい。 一年生の新入部員の子たちと一緒に入部した愛美は、最初の頃こそ「相川先輩」「愛美先輩」と呼ばれ、一年生たちから少し距離を置かれていたし、愛美自身も一年下の〝同期〟にどう接していいのか分からずにいたけれど。 最近では一歳くらいの年の差なんてないも同然で、一年生の子も気軽に声をかけてくれるようになった。敬語は使われるけれど、同じ小説や文芸作品を愛する仲間だ。「来月に出す部誌は、新入部員特集号だから。巻頭は相川さんの作品を載せることにしたんだよ」「えっ、ホントですか!? ありがとうございます!」 愛美も今度は、思わず大きな声でお礼を述べた。 新入部員とはいえ、自分は二年生だから、一年生の子に花を持たせてやりたいと思っていたのだ。「うん。あの作品、みんなから評判よくてね。満(まん)場(じょう)一(いっ)致(ち)で巻頭に載せるって決まったの」「そうなんですか……。なんか、一年生の子たちに申し訳ないですけど、でもやっぱり嬉しいです。――じゃあ、失礼します」 後藤部長に会釈して、愛美は親友であるさやかと珠莉の待つ寮の部屋に帰った。 それぞれ陸上部と茶道部に入った二人(さやかは陸上部・珠莉は茶道部)は、今日は部活が休みだと言っていたのだ。「――ただいまー」「あ、愛美。お帰りー」 部屋に入ると、すでに長袖パーカーとデニムパンツに着替えていたさやかが出迎えてくれた。 珠莉はスマホを手に、
****『拝啓、あしながおじさん。 わたしが横浜に来て、二度目の春がやってきました。そして、高校二年生になりました! 今年は一人部屋じゃなく、さやかちゃんと珠莉ちゃんと三人部屋です。お部屋の真ん中に勉強スペース兼お茶スペースがあって、その周りに三つの寝室があります。でも、ルームメイトだったらそれぞれの寝室への出入りは自由なんだそうです。 そして、わたしは文芸部に入ることにしました。小説家になるには、個人で書くだけじゃ多分、人から読んでもらう機会は少ないと思うので。もっとたくさんの人の目に触れるには、その方がいいと思うんです。 今年は一年生の頃よりもたくさんの本を読んで、たくさんの小説を書こうと思います。 一年前、わたしは孤独でした。でも今は、さやかちゃんと珠莉ちゃんという頼もしい親友がいるので、もう淋しくありません。 ではまた。これからも見守っててくださいね。 かしこ 四月四日 二年生になった愛美 』**** ――新学期が始まって、一週間が過ぎた。「愛美、結局文芸部に入ることにしたんだ?」 夕方、授業を終えて寮に帰る道すがら、さやかが愛美に訊いた。――ちなみに、もちろん珠莉も一緒である。「うん。せっかく誘ってもらってたしね。あの時の部長さんはもう卒業されちゃっていないけど、大学でも文芸サークルに入ってるんだって。たまに顔出されるらしいよ」 愛美は春休みの間にそのまま茗倫女子大に進学した彼女を訪ね、わざわざ大学の寮まで出向いた。 大学の寮〈芽生(めばえ)寮〉は、この〈双葉寮〉よりもずっと大きくて立派だった。外部からの入学組も多いため、収容人数も高校の寮の比ではない。「へえ、そっか。喜んでたでしょ、先輩」「うん。二年生だけど、新入部員だからなんかヘンな感じだね」「そんなことないよ。むしろ新鮮だって思うべきだね、そこは」 上級生になったからって、いきなり先輩ヅラする必要はない。一年後輩の子たちとも、新入部員同士で仲良くなれたらそれでいい。そうさやかは言うのだ。「そうだね。――ところで、二人はもう部活決めた?」 一年生の時は、それぞれ学校生活に慣れるのに必死だろうからと、部活のことは特に言われなかったけれど。二年生にもなれば、各々(おのおの)入りたい部活ややりたいことも見つかるというもので